杉原千畝と武士道

>           しかし、千畝は、リトアニアにおいて、ナチスの迫害に追われた、大量のユダヤ人難民に遭遇することになりました。ユダヤ人難民たちは、ナチスから逃れるために、日本の通過ビザを求めて、カウナスにある日本領事館に、殺到しました。領事館の日本通過ビザ発行の慣例では、行き先の相手国が発行したビザ、あるいは、それに代わる書類の提示を必要としましたが、ユダヤ難民たちの多くは、希望する相手国が発行した書類を、もっていませんでした。また、当時の西欧の国々は、追われてきたユダヤ難民を受け入れる国は、ほとんどなく、パレスチナを管理していた、イギリス政府は、1939年の春、パレスチナに移住するユダヤ人の数を、厳しく制限しました。

     千畝は、緊迫してきた1940年7月から9月初旬に、何度も外務大臣あてに、電報をうち、本省にビザ発行の許可を求めましたが、ビザの発行に反対の返事だけが返ってきたため、公式の許可なしに、自分だけの責任において、日本の通過ビザの発行に踏み切りました。そして、千畝は、同年7月から8月26日までに、2139人の「杉原リスト」として知られるビザを発行しましたが、8月29日、ドイツ併合下の、プラハ総領事館勤務を命じられ、カウナスの領事館を閉鎖して、ベルリンへ向かいました。しかし、杉原は、汽車が発車する直前まで、ビザの発行を続けました。    
          千畝は、終戦後、1947年に、外務省を退職したあと、さまざまな、臨時の仕事についたり、ある貿易会社のモスクワ支店に勤務したりして、暮らしをしました。また、外務省は、長い間、杉原千畝の存在や行為を否認してきました。しかし、イスラエルに住んでいた、杉原リストの生存者により、千畝の所在が確認され、1969年、イスラエルで、勲章が授けられ、また、1985年1月18日には、イスラエルの「諸国民のなかの正義の人」賞(ヤド・バシェム賞)を受けました。(ヤド・バシェムというのは、ホロコーストになったユダヤ人を永遠に忘れないため、調査、研究、展示が行われている、エルサレム郊外の場所です。)

    杉原千畝において、義を尊び、仁や礼(他者を愛すること)を大切に思うこと、勇気をもつことなど、古くから日本人が憧憬してきた、正義を愛する心が光を放ち、現されました。ホロコーストの生存者は、杉原千畝のとった行為は、世界的に「無関心、傍観、財産没収、迫害、冷淡などにより、人間の尊厳が、奪われつつあった時、人間の尊厳性を与えてくれた。」と感じています。杉原千畝は、困窮していた人々に対し、傍観者に甘んじたのではありませんでした。  

      杉原千畝は、1986年、帰らぬ人となりました。杉原千畝の故郷、岐阜県八百津町には、千畝の功績を記念して、「人道の丘」公園が設けられています。 前の頁へ

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